2010年 09月 29日
移り行く秋 |
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by oharamey
| 2010-09-29 10:06
| 四季の草花
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2010年 09月 23日
2004 9月20日記
秋の野に咲く花は夏に思いきり伸びた茎に、色とりどりの花をつけやさしい色が美しいけれど、どことなく侘びしさがある。秋の七草が秋風に揺れる頃、空の色 はすこし茜色がさし、さわさわと風が秋を運んでくる。 子供の頃、月見になると背丈よりも高いススキをかき分け、秋の匂いの漂う中を女郎花や山萩と一緒に刈り取り、はしゃぎながら持ち帰り花瓶に入れて月の出るのを待ちわびたものである。 残暑はきびしいが、これからの時期は一年のうちでとりわけ美しい。月は大きく星座は輝き、風はさやかで、水は澄み実りの時である。イチジクや葡萄、梨を 食すると何だか体中が秋を感じる。 秋になるといっそう音楽が欲しくなり、決まって聞きたくなる曲をかたっぱしから聞く。音楽は心の底まで響くメセージの如く胸に迫り、思い出の中の懐かしい自分の姿に出会い、時には切なくなって泣けることもある。 悲しみや辛いとき、途方もなく疲れていても音楽はやさしく受け止めてくれる。爽やかな朝にショパンのピアノもいいけれど秋はバッハを聞くのもいい。夜はブラームスの重厚さやアダージョを弦楽器でゆったりと聞きたい。静かで美しい曲を聞いていると、夏の烈しい暑さを忘れさせ心を癒してくれる ような気がする。 ほっとするような熱い紅茶やコーヒーをすする時、又夏にさらした肌を優しく包む衣服の感触に秋がそっと寄り添うのを感じる。この時期は夜更けに少し窓を開け、すだく虫の音を聞きながら眠りにつくことにしている。 夜風の冷たさに思わず覆衣にくるまる時、私の耳元で秋のささやきが聞こえる。もう 北国はため息の出るような紅葉前線が始まっている。そのうち燃えるブナの林が遠々と続き紅蓮の山となる。今年の秋は一段と美しいことだろうと。 #
by oharamey
| 2010-09-23 15:36
| Essay忘れな草を花束にして
2010年 09月 23日
2005 9月19日記
祖父はお酒が好きで風流好みな人だった。雪月花を楽しみ季節を満喫し、自分のライフワークを大切に生きていた人である。今風に云えば趣味が多く物知りで、すべてを器用にこなす人であったが、「遊びが半分」 といつも祖母に小言を言われていた。人つきあいが良くやさしい祖父に私と妹はいつも纏わりついていた。 一緒に風呂に入ることが多く、首や足の甲、踵の洗い方やタオルの使い方など教えられたものである。 祖父は熱めのお湯が好きでその湯に肩まで浸り、大きな声でゆっくり数を数えよく温まってから、風呂から出ることを強いられた。熱いのが苦手な私にとってこれは唯一の苦るしみだった。 風呂から上がると夕食までの時間を祖父は、妹をおんぶし私を連れて家の周辺をぶらぶらする慣わしで、そのひと時の楽しかったことを良く覚えている。夏には家の東側の棚田にたくさんの蛍が飛び交い、「ほーほーほーたる来い」と歌いながら、私は大嫌いな蛇やお化けが出ないかと心配で、祖父の着物の袖をしっかり掴んで歩いた。おんぶされた小さな妹をその時は羨ましく思ったものである。 秋になり大きな月が煌々と照らし昼間のように明るい晩のことであった。家の裏から栗の木や竹林に続く畑の坂道を行くと、柿の木の付近に枯れ草がおいてあり、その下から大きな茶色の壺(陶器)の口が出てきた。何と祖父はその中に自分で作ったお酒を入れて畑に埋めていたのだ。 その壺の蓋を開けるとお酒の強い匂いが広がった。その中には小さな柄の長い竹の柄杓が入れてあった。(それはお茶道具のものと同じ形) 私は祖父が竹を削り念入りに作っている時、小さくて可愛いのでママごとに使いたいと思いながら見ていたがその後は目にしなかった。 その柄杓でまず祖父が味見をした後、月見酒だといって私にも少しだけ飲ませた。帰る途中このことは誰にも言わないようにと私に言い聞かせた。私はこれはきっと悪いことだと思い、この秘密を守ることに耐えられずあくる朝にはこっそり祖母に話した。 祖母の話では自家製のお酒を作ってはいけないし、警察に見つかると大変なことになるのだという。それにしてはあまり切羽詰ったような顔にもみえず、それより幼い子供にお酒を飲ませたことを怒り祖父を責めた。私は警察という言葉で急に恐ろしくなり、これ以上誰にも言ってはいけないと心に誓った。 それから時々思い出してはお酒と祖父のことを心配したが、しばらく経って話を聞くと、あのお酒が瓶ごと盗まれたのだという。祖父はお酒はいくら盗られてもいいが、あの瓶と柄杓を持っていかれたのがとても残念だと嘆いた。あの柄杓はめったにない出来で、そのうちお酒が沁み込んで正月にはいい飴色になったものをと、未練がましくいつまでもぼやいて悔しがった。 祖母はこれで良かったのだといい私も何だかほっとした気持だったが、祖父が気の毒にも思えた。いったい誰が持って行ったのだろう?あの頃はきっと密造酒ということで盗られても何にも言えず、諦めるしかなかったのではないかと今では笑話である。 祖父母は春には山菜取り夏は川で鮎を釣り、秋は炭を焼き冬は雉を撃ち、春夏秋冬、楽しみながら生きていた。そんな彼らに私は何処へでもついて行った。野良仕事で忙しい父や母より心にゆとりのある隠居暮らしの方が、私にはしっくりと居心地が良く、夜はお伽話を聞きながら祖母と寝ていた。夏の夜は蚊帳の中で寝るのがとても嬉しくて妹とはしゃいだものである。 「裕福ではないが楽しく優雅に暮らす」というのが祖父母の生き方であったように思う。その彼らの生きるエッセンスと暮らし方に倣って人生は楽しみを見つけながら自分らしく生きていけたらといつも願っている。 #
by oharamey
| 2010-09-23 15:13
| Essay忘れな草を花束にして
2010年 09月 23日
2005 9月7日 記
夏が往く! と、ツクツク法師が声の限りに啼いている。その元気に後押しされ、庭仕事を始めようと庭に出ると、アキアカネの群れが目の前を飛び交い、自然界はもう秋の気配である。草花はだんだん姿を消し、睡蓮が名残りの紫花を時々咲かせるだけの庭ではあるが、夜半にはうるさいほど虫の声がひしめく。 賑やかだった夏がしぼんで、八ヶ岳や霧が峰高原では、もう鰯雲が高く広がり、吹き抜ける風に心地よくマツムシソウやワレモコウがゆれている頃であろう。 八ヶ岳から高原道路を走り、マツムシソウの群生する八子ヶ峰に行ったことがある。オミナエシ、コオニユリ、アキノキリンソウが咲き競い、ヒメトラノオがドキッとするほどの濃い紫色で咲いていた。秋草が乱れ咲く中でもマツムシソウは圧感であった。初秋の風も流れる冷霧を、薄い青紫色に染めてしまうほど、山一面を埋め尽くすように咲いていた。 そこから白樺湖へ下り車山から霧ヶ峰へと続くビーナスラインは、この時期にこそ訪れたい。急に白い霧が立ち込め、一瞬何も見えなくなった足元に、小首をかしげてほのかに浮かぶマツムシソウの姿は、なんとも優雅で霧がよく似合う花である。 この花を見ると、偶然にも二条城の裏門で拝顔した英国のダイアナ妃を必ず思い浮かべる。あの吸い込まれるようなすみれ色の澄んだ大きな瞳が、白桃のようなお顔に輝いていた。育ちのいい清潔感のある気品とエレガンスは自然の美しさそのものだった。 それは真美感とでもいうのだろうか。私は自然の美しさにかなうものはなく、自然ほどその美しさで満足を与えてくれるものはないと思っている。自然は美を装ったり、それをひけらかしたりはしない。あるがままに美しく、なすがままに調和し、すべてにおいて何一つ違和感がない凄さがある。 ダイアナ妃の美しさは、その自然美に等しい非の打ち所のないもののように思われた。こんなにも麗美な女性がこの世に存在する驚きに、しばらく我を忘れていたのを覚えている。ダイアナ妃が逝去されてもうずいぶん年月が過ぎたが、今でもあの憂いあるブルーの瞳が忘れられない。それは悲しい心の湖の色だったのだろうか。 美人薄命、この言葉はこの妃のためにあったのだと思ったりする。神様は美しい妃を自分のおそばに取り戻されたのだろう。はかなげに咲く薄紫のマツムシソウと、あの華やかなお顔に寂しげな笑みを浮かべながら、控えめに手を差し伸べられていたプリンセス・ダイアナの面影がなぜか重なる、ちょっと寂しい初秋の思い出である。 #
by oharamey
| 2010-09-23 15:00
| Essay忘れな草を花束にして
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