2014年 12月 26日
哀悼 高倉健様 ~若き日の思い出によせて~ |
2014 11月10日、あなたが逝去されたことをテレビのニュースで知り、胸の奥のほうで何かが吹き消されたような気がしました。「行く道は精進して忍びて終わり 悔いなし」の言葉を残し、享年八十三歳を生ききった安らかな笑顔でございました。」と近親者のコメントに、大往生されたことであろうと静かに手を合わせご冥福をお祈り致しました。
「天より花ふり、虚空に音楽聞こえ、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき給えば、、、」と仏法に説かれているように、きっとあなたはその光輝く中をゆっくり上昇され、大自然に還られたのだと思いました。寡黙で折り目正しく、ストイックで情に厚く、誰一人嫌う人はいなかったというあなたのことを、神様、仏様はずっとお見通しであったに違いありません。
「五十有余年におよぶ活躍と、孤高の精神を貫き独自の境地を示す、映画俳優としての存在感」に与えられた菊池寛賞をはじめ、優れた作品で多くの賞を受賞され、昨年の文化勲章受賞は最後を飾るにふさわしくお見事でした。「日本人に生まれて本当によかったと今日思いました。今後もこの国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心感動する心を養い続けたいと思います。」との言葉に満干の喜びと感謝が込められていました。
人は誰もが一度は越えなければならない厳粛な節理の前に、どうすることもできないこの世の別れの悲しみを知りつつも、やはり日本を代表し世界で愛されるビックスターのあなたを失ったことに、やり場のない寂しさと喪失感でいっぱいです。あなたの生き方、人間性の豊かさ、繊細な感性によって演じられた日本人の男性像は、高倉健という稀有な俳優でしか演じることはできなかったでしょう。
あなたは雪を被ってそびえ立ち、多くの人から憧れのまなざしを浴びながらも、驕ることなく秀麗な姿を持ち続ける富士山のような人でした。でも、もうどうぞ安らかにお眠りください。私の中で吹き消されたあなたは今、あの皇居で唯々穏やかに優しい笑みを浮かべた姿でいつのまにか存在しています。長い間お疲れ様でした。そしてありがとうございました。
合掌
二十歳前の若い頃偶然にあなたの映画を観ました。「大学の石松」という映画で名前も知らないニューフェイスのあなたは、背が高くてハンサムな学生姿でした。映画スターらしくない品が良くて男らしい、それはもうさわやかなイケメンでした。すっかり心を奪われ大ファンになり、生まれて初めて後にも先にも唯一度の、ファンレターを衝動的に書いてしまい、なんと浅はかな行動をしたことかと大変後悔していました。
あなたが九州男子で明治大学出身と知り、憧れはいっそうつのり私はあなたの隠れファンでした。世は映画全盛時代で、人気俳優、女優はキラ星のごとく多数の作品が封切られ私たちの楽しみは映画でした。 ある日、見慣れない大きめの四角い封筒の手紙が来て差出人を見ると、なんと「高倉健」と。「まさか!ファンレターの返事?」夢にも思っておらず「どうしよう!手紙なんか出すんじゃなかった!きっと付き人の代筆に違いない!」などとうろたえ同僚にバレはしないかと困惑しました。
封を切るとそのぶ厚い手紙は軽薄な小娘への返事とは思えない素晴らしいものでした。便箋三枚に太字の万年筆で書かれた男性らしいしっかりした大きな文字で、礼儀正しく丁寧な言葉で、レターのお礼と近況が詳しく書かれていました。仕事が忙しくなって返事が遅れたことを詫びられ、私の仕事への励ましもあり、人に対する深い思いやりと優しさが、その謙虚さがあなたの人間性のすべてを現わしているようでした。そして感じていた通りのお人柄だと確信しました。
「青い海原」「三百六十五夜」などの作品で美空ひばりと共演され、あなたの人気は上昇しあっという間に東映の人気スターになられ、歌手で才能豊かな江利チエミと結婚され幸せに輝いて見えました。あの頃のあなたが一番明るくて大好きでした。その後「日本侠客伝」「網走番外地」など反社会的(?)で男性向きの映画が多くなり、あなたの映画は観なくなりました。血で血を洗う過激で残酷な場面を見るのが苦痛だったから。だからと言ってあなたを嫌になったりはしませんでした。この気持ちは母親であればなおさらだったと思われます。
第十三回日本文芸大賞」エッセイ賞を受賞された「あなたに褒められたくて」の最後のページに書かれている言葉に感涙しました。「お母さん僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけであなたがいやがってた背中に刺青(ホリモノ)を描れて、返り血浴びてさいはての網走番外地、幸福の黄色いハンカチの夕張炭鉱、雪の八甲田山、北極、南極、アラスカ、アフリカまで三十数年駆け続けてこれました。」とあったのです。
あの任侠映画をテレビで一二度見た際に、私は思いなおしたのでした。「高倉健」という人の持つ優れた才能が、研ぎ澄まされた真剣の刃のような凄さで花開き、男の美学が見ごとに表現されていました。その迫力とリアリティーに圧倒され感動しました。多くのサラリーマンや学生の支持を得、映画館は立ち見の人で溢れ、オールナイトで上映されたとのことでした。任侠映画は、あなたのゆるぎないビックスターの座を確かなものにし、多くの優れた作品を生み晩年の栄光の素地となったように感じられました。
1976年に東映を退社。独立以後の作品は、残念ながらシリアスで暗いものが多く、あまりなじめませんでした。世間では好評であってもある種どれもが「高倉健」でしかないという感じでした。それらの作品の中で、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」を原作とする日本映画で「八甲田山」は実にスケールが大きく傑作でした。あの任侠映画をすっかり忘れさせてくれ、私の大好きな「高倉健」がよみがえりました。テレビで放送される度に見て感動し、何度でも見たいと今も思っています。
映画「八甲田山」の徳島大尉(第1大隊第2中隊長)(モデルは福島泰蔵大尉)はあなたそのものでした。あなたの本質が役柄と一体感になり、まるで同一人物のごとく演じられたあなたが、今まで以上に輝きを放ち見ごたえのある映画でした。あなたは本当に豪雪の八甲田が似合う、八甲田に立ち向かう強さを表現できる人でした。
私はその八甲田の雪景色が見たくて、ある年厳冬の時期を避け冬と春のはざかいに八甲田を訪ねました。雪まみれになってもなおすっくと立ち、埋もれそうな雪中を行くあなたの勇姿を思い浮かべながら、静かで白い雪のブナ林を歩いたことを思い出します。
残された素敵な言葉 エッセイ [あなたに褒められたくて」より
人が心に想うことは、誰も止めることはできない。
何をやったかではなく、何のためにそれをやったかである。
今それが大切に思えている。
拍手されるより、拍手する方がずっと心が豊かになる。
人生っていうのは、人と人の出会い。一生の間にどんな人と
「天より花ふり、虚空に音楽聞こえ、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき給えば、、、」と仏法に説かれているように、きっとあなたはその光輝く中をゆっくり上昇され、大自然に還られたのだと思いました。寡黙で折り目正しく、ストイックで情に厚く、誰一人嫌う人はいなかったというあなたのことを、神様、仏様はずっとお見通しであったに違いありません。
「五十有余年におよぶ活躍と、孤高の精神を貫き独自の境地を示す、映画俳優としての存在感」に与えられた菊池寛賞をはじめ、優れた作品で多くの賞を受賞され、昨年の文化勲章受賞は最後を飾るにふさわしくお見事でした。「日本人に生まれて本当によかったと今日思いました。今後もこの国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心感動する心を養い続けたいと思います。」との言葉に満干の喜びと感謝が込められていました。
人は誰もが一度は越えなければならない厳粛な節理の前に、どうすることもできないこの世の別れの悲しみを知りつつも、やはり日本を代表し世界で愛されるビックスターのあなたを失ったことに、やり場のない寂しさと喪失感でいっぱいです。あなたの生き方、人間性の豊かさ、繊細な感性によって演じられた日本人の男性像は、高倉健という稀有な俳優でしか演じることはできなかったでしょう。
あなたは雪を被ってそびえ立ち、多くの人から憧れのまなざしを浴びながらも、驕ることなく秀麗な姿を持ち続ける富士山のような人でした。でも、もうどうぞ安らかにお眠りください。私の中で吹き消されたあなたは今、あの皇居で唯々穏やかに優しい笑みを浮かべた姿でいつのまにか存在しています。長い間お疲れ様でした。そしてありがとうございました。
合掌
二十歳前の若い頃偶然にあなたの映画を観ました。「大学の石松」という映画で名前も知らないニューフェイスのあなたは、背が高くてハンサムな学生姿でした。映画スターらしくない品が良くて男らしい、それはもうさわやかなイケメンでした。すっかり心を奪われ大ファンになり、生まれて初めて後にも先にも唯一度の、ファンレターを衝動的に書いてしまい、なんと浅はかな行動をしたことかと大変後悔していました。
あなたが九州男子で明治大学出身と知り、憧れはいっそうつのり私はあなたの隠れファンでした。世は映画全盛時代で、人気俳優、女優はキラ星のごとく多数の作品が封切られ私たちの楽しみは映画でした。 ある日、見慣れない大きめの四角い封筒の手紙が来て差出人を見ると、なんと「高倉健」と。「まさか!ファンレターの返事?」夢にも思っておらず「どうしよう!手紙なんか出すんじゃなかった!きっと付き人の代筆に違いない!」などとうろたえ同僚にバレはしないかと困惑しました。
封を切るとそのぶ厚い手紙は軽薄な小娘への返事とは思えない素晴らしいものでした。便箋三枚に太字の万年筆で書かれた男性らしいしっかりした大きな文字で、礼儀正しく丁寧な言葉で、レターのお礼と近況が詳しく書かれていました。仕事が忙しくなって返事が遅れたことを詫びられ、私の仕事への励ましもあり、人に対する深い思いやりと優しさが、その謙虚さがあなたの人間性のすべてを現わしているようでした。そして感じていた通りのお人柄だと確信しました。
「青い海原」「三百六十五夜」などの作品で美空ひばりと共演され、あなたの人気は上昇しあっという間に東映の人気スターになられ、歌手で才能豊かな江利チエミと結婚され幸せに輝いて見えました。あの頃のあなたが一番明るくて大好きでした。その後「日本侠客伝」「網走番外地」など反社会的(?)で男性向きの映画が多くなり、あなたの映画は観なくなりました。血で血を洗う過激で残酷な場面を見るのが苦痛だったから。だからと言ってあなたを嫌になったりはしませんでした。この気持ちは母親であればなおさらだったと思われます。
第十三回日本文芸大賞」エッセイ賞を受賞された「あなたに褒められたくて」の最後のページに書かれている言葉に感涙しました。「お母さん僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけであなたがいやがってた背中に刺青(ホリモノ)を描れて、返り血浴びてさいはての網走番外地、幸福の黄色いハンカチの夕張炭鉱、雪の八甲田山、北極、南極、アラスカ、アフリカまで三十数年駆け続けてこれました。」とあったのです。
あの任侠映画をテレビで一二度見た際に、私は思いなおしたのでした。「高倉健」という人の持つ優れた才能が、研ぎ澄まされた真剣の刃のような凄さで花開き、男の美学が見ごとに表現されていました。その迫力とリアリティーに圧倒され感動しました。多くのサラリーマンや学生の支持を得、映画館は立ち見の人で溢れ、オールナイトで上映されたとのことでした。任侠映画は、あなたのゆるぎないビックスターの座を確かなものにし、多くの優れた作品を生み晩年の栄光の素地となったように感じられました。
1976年に東映を退社。独立以後の作品は、残念ながらシリアスで暗いものが多く、あまりなじめませんでした。世間では好評であってもある種どれもが「高倉健」でしかないという感じでした。それらの作品の中で、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」を原作とする日本映画で「八甲田山」は実にスケールが大きく傑作でした。あの任侠映画をすっかり忘れさせてくれ、私の大好きな「高倉健」がよみがえりました。テレビで放送される度に見て感動し、何度でも見たいと今も思っています。
映画「八甲田山」の徳島大尉(第1大隊第2中隊長)(モデルは福島泰蔵大尉)はあなたそのものでした。あなたの本質が役柄と一体感になり、まるで同一人物のごとく演じられたあなたが、今まで以上に輝きを放ち見ごたえのある映画でした。あなたは本当に豪雪の八甲田が似合う、八甲田に立ち向かう強さを表現できる人でした。
私はその八甲田の雪景色が見たくて、ある年厳冬の時期を避け冬と春のはざかいに八甲田を訪ねました。雪まみれになってもなおすっくと立ち、埋もれそうな雪中を行くあなたの勇姿を思い浮かべながら、静かで白い雪のブナ林を歩いたことを思い出します。
残された素敵な言葉 エッセイ [あなたに褒められたくて」より
人が心に想うことは、誰も止めることはできない。
何をやったかではなく、何のためにそれをやったかである。
今それが大切に思えている。
拍手されるより、拍手する方がずっと心が豊かになる。
人生っていうのは、人と人の出会い。一生の間にどんな人と
出会えるかで 、人生は決まるんじゃないですか。
人間にとっていちばん寂しいのは、何を見ても何を食べても
人間にとっていちばん寂しいのは、何を見ても何を食べても
何の感動もしないこと。
いい風に吹かれたいですよ。きつい風ばかりに吹かれていると、
人に優しくなれないんです。
待っていてもいい風は吹いてきません。旅をしないと。
いい風に吹かれたいですよ。きつい風ばかりに吹かれていると、
人に優しくなれないんです。
待っていてもいい風は吹いてきません。旅をしないと。
by oharamey
| 2014-12-26 16:53
| Essay忘れな草を花束にして